茶飲み話[131]丸儲けの人生と次世代への責任

 父は戦時中の体験について多くを語らなかった。とりわけ、学徒徴兵に応召した後の軍隊経験についてはほとんど聞いた記憶がない。父が特別攻撃隊に配属され特攻訓練を受けていた話は親類から聞いていたのだが、一度だけ晩年の父が往時の訓練について語ったことがある。乗用車の免許取得にも大いに苦労したほど不器用な人であったから、父は無論パイロットではなかった。敗戦も近づいたころ、日本軍も初歩的な「電探」(電波探知機=レーダー)を開発しており、父は電探操作の指導を受けて、複座式の戦闘機でパイロットと共に敵艦に体当たりする夜間特攻の訓練をしていた。とはいえ、「電探」の性能たるや極めて劣悪で、少し波が高くなると船影と波の識別すら困難であったという。そのような夜間特攻が実際に敢行されたのかどうかは分からない。それよりも重要なのは、親類の話によると、当時父は既に出撃が予定されており、母(私の祖母)宛てに遺書も送られていたということだ。つまり敗戦があと1カ月も遅れていたら、今の私は存在しないということである。これは私の反戦平和に対する執着の原点でもある。ただ翻って考えれば、九死に一生を得るようにこの世に生を受けた私の人生は、今生きているだけで丸儲けのようなものかも知れない。

 丸儲けの人生と悟ったのは学生時代であったと思うが、爾来、いくつかの幸運に恵まれたこともあるが、世間の慣習や周囲の思惑をかいくぐり、概ね自分の思うように生きてこられた。学生自治会の役員となって学費闘争を指導もしたし、当時高揚していた成田空港反対闘争では反対同盟委員長(当時)戸村一作氏の参院選を応援したりもした。卒業後は日産自動車に就職したが、これは経済学者の伊東光晴氏がどこかで、現代経済を理解するには輸出大企業の実態を知らなければいけないと書いていたことに触発された面が大きい。当然ながら学業の成績は芳しくなかったので、興銀出身だった父の力を借りた。自動車会社がエンコ採用では洒落にもならないが、日産でその頃権勢を振るっていた自動車労連(現日産労連)塩路会長に反発して、全国金属プリンス自工支部に加入したことから人生の局面が大転換した。分裂少数組派組合の悲哀も味わったが、産別における地協・ブロック活動や地域における地区労活動、さらに様々な争議団との交流といった体験は、その後産別本部において専従者となってからの立ち位置やものの見方にも大きく影響したと思う。

 私が金属機械本部に職を得たのは1990年のことだが、1999年のJAM結成を経て、2013年から3年間の連合総研派遣期間を含め、ほぼ一貫して政策畑で内外経済や労働情勢の調査を担当してきた。経済や社会を長年に亘って、働く者の未来を切り拓く観点から分析してきた立場からは、あらぬ方向に迷走を続けたともみえるこの四半世紀こそ、画時代的な転換期として映る。経済は閉塞し、民主主義は窒息する。そんな重苦しい歴史感覚の下で、コロナ禍があたかも触媒のように、社会の歪みを際立たせながら変化の加速を促している。人口減少、雇用劣化、医療危機など直ちに対処すべき課題がいくつも明らかにされているにも関わらず、ワクチン接種が進んで一見状況が改善したかに感じられるや、やれグリーンだ、やれデジタルだと、まるで惨事に便乗するように、欲と得に支配された成長至上主義がゾンビのごとく復活してくる。

 私たちは、悔い改めない強欲な人々が主導する変化の加速への対抗軸をすぐにも提示しなくてはならない。誰しもが運の良し悪しに関係なく、晩年を迎えたときに、常に尊厳が保たれた幸福な丸儲けの人生だったと振り返ることができる、そんな社会の見取り図や工程表のあらましをこしらえることが、次の世代に対する責任ではないかと思う。それは無謀な戦争であたら若い命を散らした先人たちへの、何よりの供養ともなろう。

退職者連合 副事務局長 早川行雄