茶飲み話[130]北海道と戦争の歴史 平和について

1 はじめに
 昭和史のノンフィクション作家の保阪正康さんは札幌の出身。毎年数回札幌市で講演会が開催される。2年前に北海道文学館で「保阪正康の仕事」が展示された。保阪さんの書かれた『最強師団の宿命』を読んで改めて北海道の歴史と戦争について考えさせられた。明治時代「軍都」旭川で屯田兵を母体に第7師団が組織されたが、明治、大正、昭和で様々な戦場に「最強師団」として大本営参謀に便利な形で動員され、常に激戦地に投入され、多くの兵士が犠牲になってきた歴史が書かれていた。以来、北海道と戦争の歴史、また北海道の空襲では、函館、室蘭、釧路、根室で大きな被害がったが、あまり知られていない。
 まずは資料を集め北海道と戦争の歴史を再度学ぶことに。

2 歴史的な背景 
 江戸時代後期からロシアの侵略に備え、松前藩中心に東北の各藩から道内の要所に警備のため藩兵を派遣した。
 幕末の戊辰戦争で薩長、新政府軍が勝利し江戸時代から明治に。その後、東北で奥羽列藩同盟が抵抗するが敗北。さらに幕府海軍の榎本、新選組土方らは北海道で「蝦夷共和国」をめざすが敗北し戊辰戦争が終結した。
 明治政府は欧米列強に学び、急速に近代国家をめざし富国強兵路線へ。北海道開拓に、旧士族の活用、全国から東北各藩の士族、尾張徳川は八雲に。
 そして、対ロシアの防衛と北海道の開拓の任務を持つ屯田兵が創設された。

3 陸軍第7師団が、日露戦争、ノモンハン事変に投入される
 旭川陸軍第7師団は、日露戦争で旅順要塞攻略を目指す乃木希典率いる第3軍に編入された。寒冷地に強い軍として厳しい戦局の打開する切り札として多くの兵士が投入され、最大の激戦地203高地で多くの戦死者を出し、突破した。さらにシベリア出兵、ノモンハン事変、日中戦争などに連続的に派兵された。

4 太平洋戦争と第7師団
 1940年、近衛内閣、日本はアメリカとの太平洋戦争へ突入した。ハワイ真珠湾攻撃で大勝利。はじめの半年は電撃的に勝利したが、その後、アメリカ軍の反撃でミッドウエイ海戦に敗北し、以降戦局は劣勢に制空権、制海権も奪われ敗戦の流れに。
 旭川第7師団第28連隊の一木支隊916名は、グアムから旭川へ帰還途中に、急遽ガダルカナル島の米軍への反撃を命じられた。しかし日本はミッドウエイ海戦で敗北しており、米軍(3万人)の反撃にあう。桁違いの戦力の差に一夜の戦闘で先遣隊は壊滅した。大本営参謀の責任は大きい。その後のアッツ島の玉砕も。
 旧満州で編成された第89連隊に多くの北海道の兵士が、南方要域と沖縄へ。沖縄戦で、多くの北海道の兵士が戦死した。(1万2千名)

5 北海道大空襲
 1945年7月13日、14日の北海道大空襲で、79市町村、約3,000人が死亡し、多くの負傷者、建物の損壊など被害が出た。とくに室蘭市、根室市、釧路市、函館市で軍事、運輸関係(青函連絡船)などが集中的に爆撃された。

6 まとめ
 北海道の歴史、戦争とのかかわりで、作家の保阪正康さんは、明治、大正、昭和の多くの戦争のなかで大本営参謀に北海道の第7師団の兵士は便利に利用された。道民はこの事実をもっと知るべきだと言いたいのだと思った。これは全国の軍隊も同じだと思う。
 また、北海道空襲の被害の実態。終戦後にソ連が参戦し、樺太や千島列島で攻撃し、北海道を分割支配しようとしたが、アメリカが拒否した。結果、ソ連は北方領土の占領、数十万人の日本兵をシベリアに抑留した。多くの問題があったことを改めて学習し、若い世代に平和運動を継承していかなければなりません。

北海道ブロック幹事 冨山 隆(道退連会長)