茶飲み話[107]

 1972年6月29日付けの全繊新聞(現UAゼンセン新聞)の「わたしの提言」欄に次のような一文がある。6日に亡くなられた金田正一氏の寄稿文である▼『巨人の堀内クンに「カネさんておしゃれだなあ。いつもスカッとしている」と声をかけられた。「ほら、見て見ろヨ。シャツから靴下、靴まで同じ色で統一しているだろう」とワタシ。大いに自慢したものだった。ワタシが「おしゃれ」になったのは引退後からである。(中略)。現役時代のワタシは色彩音痴。黒の背広に茶の靴でも平気で街を歩いたものだ。それに野球をするときには便利なことにユニフォームがある。いや、当時は寝ても起きても、野球のことしか頭になかった。あの頃の写真を引っ張り出してみると、ケンのある顔をしている。勝負に骨身を削って暮らせばあんな顔になるのだろうか。(中略)。ともかく、おしゃれなんて考えたこともなかった。もちろん、ワタシはプロ野球で育ったことに誇りを持ち、また、感謝もしている。それどころか、野球解説をしていても、「あんなタマを投げるバカがいるか」と思ったり、左腕がウズいたりする日のなんと多いことか。だが、すべてはユメ。過去を振り返ってばかりいては人間おしまいだ。原稿を書いたり、テレビに出るのも結構、たのしい。(中略)。自分の顔に神経をとがらし、髪の毛の伸びぐあい、目の澄み方、背広はどれにするか、ネクタイピンとカフスボタンは同じでなくっちゃあ―と鏡の前で笑ってみたり、悲しい表情を作ったり。こんな顔、どうやったってカッコよくなりっこないのは知っていての努力だ。職業意識というものだ。人間、与えられた仕事に全力投球する。これがしあわせへの道じゃないか。おしゃれひとつにも意味はあるんです』―▼「茶飲みっ子」が氏と出会ったのは愛媛県に赴任中のこと。1969年12月に行われた衆議院選挙で、松山に応援に来てくれた氏の専属街宣マンとして一日半行動を共にした。前人未到の400勝投手の引退直後とあって押し寄せる群衆。氏はその中を、「茶飲みっ子」の肩をあの大きな体で包み込むようにして歩いてくれた▼その後「茶飲みっ子」は東京本部へ転勤、編集部配属となった。二年ほどたったある日、おずおずと原稿執筆を依頼したところ、氏は松山でのことを覚えていてくれて、二つ返事で引き受けてくれた。(良穂)[2019/10/9]