大好きなウインタースポーツでボランティア活動

(今回のお達者さん)
茨城県退職者連合
事務局長 関根幸一さん(78歳)
(日立退職者連絡協議会)

「幸爺」こと関根さん

 茨城県ひたちなか市で奥様と2人で暮らす関根幸一さんは、「自然と共に生き、長生きに年齢制限なし」を大事にしながら、地域の子どもたちにスキーやスノーボードなどの指導を通じてウインタースポーツの楽しさを教えています。関根さんは、1941年2月21日生まれの78歳。中学卒業後、日立製作所に入社。旋盤や歯切り(ギアー)盤などの機械加工を経たのち、海外駐在員となり、アメリカ・ドイツ・スイスなどで質量分析計装置や電子顕微鏡のサービス業務に携わった国際派です。64歳でスキー準指導員、74歳でスノーボード準指導員の資格を取得。自分で「幸爺」(幸せ爺さん)という関根さんのウルトラ爺ちゃんぶりを紹介します。

雪だるまになっても、すっかりスキーの虜に

 スキーを始めたきっかけは、1961年20歳の頃です。会社のスキーバスツアーで塩原スキー場に行ったことです。当時、スキー場には、有料のロープトウ(ロープに木製錨付き)で上まで引っ張ってもらう簡易リフトがありました。でも自分なりにスキーを楽しもうと汚れのない純白のゲレンデを直滑降で降り、そして、スキーを担いで上まで登り、再び一気に滑り降りてくるのを繰り返すのが、とても快感だったことを覚えています。
 私の若い時分(1962年頃)は、生きるために残業や休日出勤が多く、とても自家用車を持てる時代ではありませんでした。職場とか庶務課で計画したバス旅行に便乗して、雪山に行ってスキーを履き、山の上から動力なしで滑走することに感動しました。蒸気機関車の時代、乗り継ぎながら一人で山形蔵王まで行ったこともあります。蔵王山頂からザンゲ坂を滑り、樹氷に突っ込んで、雪だるまになりながらも下まで降りて、蔵王温泉宿の硫黄の湯に浸かった心地よさは抜群で、すっかり虜になりました。
 物理的に物体が上から下に落ちていくのは、身近に感じます。でも雪のない普通の山の傾斜地を降りようとするとそうはゆきません。色々な障害物、例えば石や雑草があり、スムーズに降りられないばかりでなく、服が汚れたり、あっちこっち擦りむいたりと決して楽しい事ばかりではありません。しかし同じ山の傾斜地でも白い雪面は違います。エンジンなどの動力が無くても自在に滑り降りることができます。しかも、転んでもウエア―は汚れず、両スキー板の幅や角度の組み合わせで速度、小回りや大回り回転で優雅に楽しめます。冬から春にかけてこのスポーツにすっかりはまってしまいました。それからは、仕事の関係で少々でしたがアメリカやカナダ、スイス、オーストリアで滑る機会がありました。

スキー・スノーボード指導員としてボランティア活動

 スキーに熱を入れるようになったのは43歳頃からです。茨城県ひたちなか市スキー連盟に所属し、スキー参加者が雪山を楽しめるように手伝いをする機会が増えました。
 中学1年生のスキー研修では、1班(12~15人)を3日間指導に当たります。最初は滑れない子でも最終日には楽しめるまで伝授します。市民スキーツアーでは、その時のニーズに応じてスキーやスノーボードの指導を行います。どのレベルの方でも、上達して「滑れて良かったよ」とか「楽しかった」と言ってくれるのが何よりの喜びです。
 身障者の方の楽しみの一つ「雪山の集い」に参加したこともあります。安全に且つ楽しめるようにするのが最大の目的です。私は、目の不自由な方を担当して、プルークボーゲン(ハの字型にスキーを揃える)で構えてもらい、私がその方の谷側に後ろ向きに滑る構えで、右や左と大きな声を張り上げてタイミングを合わせることや、ストックを叩きながら他のスキーヤーの間を誘導して滑って、リフトの乗り降りと滑降を繰り返します。このスキーは、二人の絶対的な信頼感のもとに成り立ちます。(残念ながら現在、このツアーは諸事情により実施されていません。)
 現在は、自己研鑚も兼ねて、微力ですがウインタースポーツの振興に努めています。

ひたちなか市立田彦中学校第1学年スクイー宿泊学習で指導する関根さん前列左から3人目。
(2014年1月。日光湯元スキ-場)

64歳でスキーの準指導員、74歳でスノ-ボード準指導員資格を取得

 指導員資格は、1級取得後、3年がかりで64歳の時に取得しました。その後、スノーボ-ドにも挑戦しました。遅まきながら74歳の時、栃木県のハンターマウンテンスキー場でスノーボードの資格を取得しました。その時の栃木県スキー連盟会長さんが、「今まで沢山の資格認定証を授与してきたが、年上の人に授与するのは今回が初めてです」とコメントされました。

現役時代の主な仕事

 中学を卒業後、日立製作所の学校では機械科を専攻して工場実習先に配属された時は、旋盤や歯切り(ギアー)盤などの機械加工を主にしていました。しかし、自分としては海外への出張を夢見ていたので、海外輸出している製品の組み立て調整組に何とか配属変更してもらいました。幸運にも質量分析計のサービスマンとして据え付けやセール―スアシストを業務として、1967年からアメリカに約3年半駐在する事になりました。一時帰国後、スイスのチューリッヒとドイツのデュッセルドルフに駐在して質量分析装置や電子顕微鏡を主に約12年間再びサービス業務に携わりました。42歳で帰国後は、MRI(磁気共鳴イメージングシステム)の 品証課に所属。顧客の病院へ据え付け業務を行いました。その後、尿や血液分析装置に関連する業務を最後に2001年4月に、45年間勤めあげて無事に定年退職を迎えました。
 その後,縁があって2年毎に開催される技能五輪世界大会の選手とエキスパート(専任指導者)の通訳者として、スイス、ヘルシンキ、沼津、カナダ・カルガリーとロンドン大会に係わりました。ヘルシンキ大会では、担当した機械製図部門で金メダルを獲得した選手とチーム関係者と共に大感激したことを今でも鮮明に覚えています。

アポロ宇宙船が持ち帰った月の石

 私がアメリカ駐在中の1969年7月16日、アポロ宇宙船が人類史上初めて月面着陸に成功。アームストロング・マイケル船長が月から石を採取して地球に持ち帰りました。月の石の質量を分析するためNASA(ヒューストン)では、信頼性のある質量分析装置が必要になり、確実性を確認するために3大メーカー(アメリカ、イギリス、そして、日本の日立の装置)が選ばれました。その日立製質量分析計を私が据え付けることになりました。据え付け時の様子の一部を紹介します。
 月から持ち帰った石は、地球環境にどのように悪影響(エイリアンが出現?)を及ぼすのかは未知数です。また、分析する時に地球にある物質の影響があっては正確なデータを得ることができません。そのため、分析室に入って組み立て仕事をする際に私服を全部脱ぎ、専用のロッカールームに収納。全裸のままエアーシャワーを浴びて専用の作業衣に着替えて仕事をします。休憩時間のコーヒータイムや昼食時には作業衣を専用の廃棄物処理口に投入して、私物に着替えて専用の部屋に移動して飲食物を摂ります。そして、再び作業に戻る際には、同じ手順を踏んでから新品の作業衣に着替えをします。「もったいない」と思いましたが、最善の注意が必要でした。当然ながら作業用工具器具備品類も、別ルートで特殊な消毒をされました。
 特殊作業のため、就業時間は短いので、仕事が終われば即ホテルに帰り、プールで運動と涼をとりました。テキサス州ではうっかり馬に触ると銃殺されると誰かに言われたことがあったので、馬にも女性にも近づかない事にしていました(命あっての物種)。テキサスのカーボーイは映画で鑑賞するのが、安全で且つ楽しいので、ベストです。

ベルリンフルマラソンにも出場して完走

 定年退職した2001年に、大塚製薬がスポンサーとなって、年間に100km以上を完走した全国のマラソンランナーの中から10名をベルリンに無料招待するプログラムがありました。一年前にマラソン大会に出場した記録証を送った私も幸運にも当選者となり、ベルリンでフルマラソンに出場することになりました。結果は4時間30分で完走。招待者10名全員が制限時間内に完走できたので、ベルリンマラソンで世界新記録を達成した高橋尚子さんのQちゃんグループと小出義雄監督に会って、報告をしました。その時に監督から「夢と希望」の揮毫をマラソンで着たTシャツに油性ペンで書いて戴きました。今では、大変貴重な宝物です。

「長生きに年齢制限なし」の特権

 今後も、今まで通り健康に良い食材と食事方法に気遣いながら、脚力を鍛える(階段利用)ように心掛けます。いつまでもスノ-ボードやスキーを楽しみながら現在まで与えられたPTA後援会、同窓会、地域ボランティア活動や退職者連合の任務を継続させてもらえることに深く感謝しています。全てに思い遣る心を忘れずに、そして、これからも明るくプラス思考に進めるように努めていきます。この状況にある今の私は、とても幸せです。まさしく幸爺(幸せ爺さん)です。この幸せは、今までご指導やご支援を頂いた、たくさんの方々と優しい妻智恵子と家族に支えられていることに深く感謝しております。
 「長生きに年齢制限なし」の特権を大事にしながら自然と共に生きて行きます。最後に、今まで生きてきた出来事を記録できる機会を下さった方、そして、多種多様に亘ってご指導してくださった方々に心からお礼申し上げます。