仲間たちの存在と植樹した木々達

(今回のお達者さん)
JR総連OB連絡会
橋倉 喜一さん

70歳で、銅山の町だった足尾に転居して5年が経った。60歳の時癌で妻を亡くし、3人の子供達も家庭をもって、私は”独り身”となってしまいました。そうなってみると、都会での生活が急に色あせて「人生の最後は故郷の栃木県で迎えたい」と思うようになりました。

当時JRでは、年金満額支給まで関連企業で働ける「エルダー制度」というものがあり、宇都宮駅構内の蕎麦店で働く事となりました。その傍ら、現役時代から続けてきた「NPО法人・森びとプロジェクト委員会」での植樹活動ボランティアも行ない、第2の人生をスタートしました。

「森びと」とは、”地球温暖化に少しでもブレーキを掛ける!”ことを目標に、その合言葉は「山と心に木を植える!」というものでした。JR発足当時、労働組合が社会貢献活動のひとつとして取り組んできたものです。当時私は、労働組合の役員をしていたので、植樹活動ボランティアに対しては義務的な意識で参加をしていました。
そんな私の頭を殴ったのが一本のビデオでした。“公害の原点”と言われた足尾銅山のはげ山に、30kg以上もある「植生盤」(土と草の種を混ぜ、圧縮して板チョコのようにしたもの)を背負い上げ、岩と石ころだらけの山肌に張り付けているご婦人方の姿でした。
雨が降っては流され、また張り付けては流されての繰り返しでした。涙が出ました。

時が過ぎ、森づくりの中で先人たちと同じような苦労を経験しながらも、止めずにやってくることが出来ました。それを支えてくれたのは「ビデオ」もさることながら、同じ目標をもって何でも言い合える仲間達の存在と手をかけてやれば答えてくれる植樹した木々達があったからにほかなりません。
マッチ棒のように細かった苗木が、大人の足のように太くなって森が出来ていくのを見ていると「頑張ってきて良かった!」と心から思います。

私はいま、足尾・松木沢にある「みちくさ」という交流の為の山小屋でボラン ティア活動を行っています。「森びと」が創られて来年は20周年になります。沢山の皆さんから協力を頂き、立派に育った森を案内したくお待ちしています。煙害を生き延びた中倉山の「孤高のブナ」、「足尾ジャンダルム」等、足尾の歴史と自然に会いに来てください。